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歴代理事長が語る想い出message

理工学部の前身は民活

佐藤 富三

第23代理事長 佐藤 富三(22機械)
平成18〜20(2006〜2008)年

 私は、平成18〜20年の間、工業会理事長を務めた。
 就任当時の工学部は、平成元年の改組以来20年近くの歳月を経て、学科再編による新学科の設置を計画中であった。
 この時点で工学部は、創立90数年が経過し、工業会(以下「本会」)も設立後80数年の歴史を刻んできている。本稿では、大学の創立時前後の歴史について地元出身者でもある者として、思いつくままに繙いてみたい。本会の歩みについては、別掲の沿革を参照いただきたい。
 旧制の桐生高等工業学校校歌に、「・・・名邑、桐生の栄のもとい」とあるように、創立当時の桐生は、関東はおろか、全国的にも知られた織物のメッカであった。この「名邑」のまちの人たちの民活によって、理工学部の素地ができたのである。
 桐生は、織物の産地として、江戸時代初期の頃からすでに注目されていた。その証拠に桐生の町並みがある。当時の代官は、本町1丁目から6丁目までの区画整理を指示している(慶長10年)。下って明治維新には新政府となって、欧米列強と伍していくために、富国強兵と殖産振興を唱え、国を挙げて産業の振興を始めるようになった。特に、桐生では輸出が急成長したときでもある。因みに桐生織物史によると、管内の出荷高は明治29年に、2千9百万円余とある。当時の国家予算の約2割に相当するほどで、いかに隆盛であったか窺い知ることができる。当時の桐生のまちにあっては、有志は郷土愛に支えられて意気軒昴であった。これに呼応するように、高度の染織技術を渇望して実現したのが「桐生染織講習所」である(明治9年)。
 その後、技術の質的向上と平仄を合わせるようにして、「桐生織物学校」(明治29年)に引き継がれていく。指導教師陣も相応して充実し、高レベルの教育が行われていた。その後、「群馬県立織物学校」に昇格し(明治38年)、名実ともに高い染織技術の伝承が進み、桐生の興隆の基盤となったのである。さらに、地域からも、高度の技術者教育機関設置要望の声が興り、国立の高等専門学校設置の声が一気に盛り上がっていった。
 地元の武藤金吉代議士(当時)は、この要請をいち早く察知し、直ちに行動を始め、明治43年には「高等染織専門学校に関する建議書」として纏め、第26帝国議会に提出した。
 当時の群馬県知事は、織物に造詣が深く、強い関心を寄せているとの情報を得て、山田郡長、桐生町長を動かした。中心的に活躍した地元の有志が、森宗作をはじめ書上文左衛門、大沢福太郎、飯塚春太郎代議士などの各氏で、名実ともに当時最高の陣容であった。ここで一気に山が動き出したのは至極当然のことである。
 その結果、当局から、用地の1万5千坪(約49,650u)と設立費35万円を地元負担とする条件が示された。桐生町としても、これを受容するにはかなりの時間がかかったという。当時の35万円は現代感覚からすると35億円ほどにもなろうか。
 土地については、前原氏(宮司筋)が所有する赤城の森(天満宮の神域)の一部を提供する申し出があり、資金の工面に近隣産地の有志や、東京・関西の集産地の得意先にも嘆願したという。それでも提示額には至らず15万円に留まり、県に窮状を申し出たところ、その努力が認められ、不足分の20万円は県費から拠出することで資金問題は一件落着した。この結果、明治45年の第28帝国議会に、「第8高等工業学校新設の建議案」を提出し、可決され、大正4年12月27日の勅令をもって、「桐生高等染織学校の設置」が公布された。
 学校は、桐生高等工業学校、桐生工業専門学校を経て、新制の群馬大学工学部となり、今日の理工学部に至ったのである。改めて関係諸氏に感謝の誠を捧げたい。
 以上が大学設置の経緯であるが、国立学校の民活支援による新設がいかに難事業であったか、先輩諸氏の東奔西走と、郷土愛に満ちた理想には驚くほかない。特筆大書しても過ぎることはないと想う今日この頃である。


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